どんな赤子の泣き声にも主張がある

台風一過のあとの長閑な、というより少し間の抜けた朝。なんだか気まずい空気を埋めるかのように鳥がちちちちと鳴いている。ちちちち・・・・。

本を読みながら少し考えていた。

世の中には読まれるブログの書き方なる方法が溢れている。曰く「毎日書きなさい」、曰く「目を引く写真を載せなさい」などなど。そして、なるほどなるほど、とせっせと書いては続かずに挫折して自己嫌悪に陥る。だけども、もうそういうのっていいんじゃないのか、って。そんなことをぼんやりと考えていた。毎日書かなくってもいいんじゃないか。

書きたいときに書きたいことを書く。

もうそれでいいんじゃないかって、そう思うことができた。たしか村上春樹が言っていた「どんな髭剃りにも哲学がある」って。僕なりに言い換えるならば「どんな赤子の泣き声にも主張がある」、そんな心持だ。もちろん僕の書く文章にそんな優れた主張があるわけでも、含蓄があるわけではない。その点誤解なきように言いたい。けれど少なくとも僕は自分の書きたいことを書く。読み手ファーストなんてクソ食らえ。どう読まれるかではなくって、何が書きたいかなんだ。

 

今朝読んでいた村上春樹の「もしも僕らのことばがウィスキーであったなら」を読んでいて、やっぱり村上春樹の文章は引き込まれると思った。比喩がほかの作家に比べて独特で少し違う。村上春樹は終わったと誰かが言っていた。僕も正直それは感じるし、村上春樹も歳をとったと思う。物書きに歳は関係ないかもしれないけど、村上春樹に関しては老いを感じさせる。だけど過去の本は違う。若々しくて毅然としていて、ユーモアに溢れている。この本もそう。そう感じさせた。

 

もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)

もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)

 

 

唐突だけどそんなことを考えさせられた。

「どんな赤子の泣き声にも主張がある」